重力の快楽
粘土に可塑性があるように、脳神経にも可塑性がある。ならば、現実にも可塑性があるということだ。そういうことにしている。
(可塑性とは固体に力を加えて弾性限界を越える変形を与えたとき、力を取り去っても歪みがそのまま残る性質。塑性)
現実は粘土のようなものだ。
押せば凹み、引っ張ればちぎれる。
占いも同様だ。未来をリニアなもの(直線的で断定的なもの)として捉えない。
粘土のように可塑性あるものとして自在に創造してゆく。
可塑性と重力には関係があるだろうか。
ロクロをひく時、重力を感じずにはいられない。
重力を無視すると、器としての形状は破綻する。
明確な垂直方向。
重力場における人間の観察可能な物理現象において垂直を無視できない。
これは地球人のテーマであり、原初から通底するトーンだ。
思えば私はオギャーと言った瞬間から重力と共に生きてきた。
割と当たり前だ。
体が重い。誠に不愉快である。
生まれる前にそんな不快は感じなかった。
しかしここは地球だ。感じるしかない。
山に登る。
体が重い。
人々が持つ「もっと上へ」という渇望は重力からの解放を求めてのことか。
あらゆる宗教における地獄の階層構造が、下向きの垂直方向へと劣悪になっていくのも頷ける。
ひたすら重いのだ。
飛びたい。
重力場における自在さへの憧れ。
踊る時、人は身体可動の限界を感じる。
その限界を感じ尽くし、もっとも必然的に動いた時、踊り手はその抑圧を昇華して火になり水になり、風になる。
「必然的に」とは、運動力学的にもっとも理にかなった、と言ってもいい。
脱力なしに踊りのグルーブは生じ得ない。
脱力は重力への信頼である。
犬が腹を見せる時の快楽。
惑星で作られた器は重力に依っている。
重力場としての惑星と、情報場としての世界への信頼。
自分を明け渡した時に生じる信頼というものがある。
いかに信頼するか。
ある日本の陶芸家が、器の三大原則のひとつに「量感」を挙げていた。
量の感じ。重さの感じ。
重さだ。
重力は人間にとってデフォルトすぎる。
デフォルトをハックする。
ひたすら位置エネルギーを知覚する。